わせ祭に寄稿する予定の文章

「一歩」の使い方

文学部2年 日野明弘

 

例えば、渋谷のスクランブル交差点。「スターバックスコーヒーSHIBUYA TSUTAYA店」の、ちょうど交差点に面した窓際の席から見下ろしてみる。普段、地上に立っている時には同じ高さに見えている人の視線を、はるか下に見ることになる。赤信号に待つ溢れんばかりの人の塊が、つぎの瞬間にはワッと開いて交差点の中央に展開していく。それはプログラムに従って動く一つのシステムのように、やがて交差点を真っ黒に染上げ、すぐに真中から波のように引いていくのがわかる。人と人がぶつかってしまうのは結構稀で、大抵は“木組み”のように、一団一団の黒塊が相互に組み合わさっては解(ほど)けていく。自分が交差点を渡る時には意識さえしないような人の流れがありありと感じられ、その概観を隅々まで捉えることができる。

或いは、満員電車。天井に吊るされた広告上の、奇抜な彩色の煽り文句のテキストに追いやられながらも、快活に白い歯をこぼすイケメン俳優、その目から見下ろす車内はどのような感じだろうか。ジャケットに覆われた黒い肩が密着し合い、その上に頭だけがいくつも浮いている。ある人は金魚のようにぼんやりと上を見上げ、ある人は片耳だけかけたイヤホンから、流行りのナンバーを流し流しスマホに夢中になってる。あなたはそんなくだらないことを考えながら、英会話教室の吊り広告にうつるサラリーマン風の男を眺め、文字を音声的に追っている。

 いつもはあんまり意識したことのないものに、敢えて目を向けてみるには、この東京で送る日常はいささか煩雑すぎるだろうか。都内昼間人口にしてざっと1500万人以上の雑踏は、その視界を覆いたくなる程に窮屈だろうか。カウンターを隣にして、同じ油そばをすする“知らない”男性のこれまでに、積み重なってきたリアルを、あなたは一度でも意識したことがあるだろうか。それぞれが一個体として20年、30年、或いはそれ以上の年月に渡って世界を構築し、ひとつの体系としてあなたの前に現れた。これがこの世界の、社会という疑いようもない現象である。そこでは経験的な類型としてのペルソナなどは、その場しのぎとしてすら脆弱に感じられたしまうほどで、なんとも心もとない。

 「一歩引いてみる」或いは「一歩、踏み込んでみる」これは正反対のことを指しているようで、実は同じことなのだろうと思う。それは、試しに俯瞰してみることであり、絞り込むことである。ある対象を前に、観察する向きを変えてみたり、近づいたり、離れたりしてみること。つまり、できるだけ慎重にその対象を捉えようとすること、一人ひとりを相手に真摯であろうとすることに近い。あなたが見ている目の前の彼が、どうしてあなたが見ているままの人間でありうるだろうか。「一歩引いてみる」ことは世界を、「一歩踏み込んでみる」ことは“目の前の彼”を相手に、自分を相対化してみる感じだ。そうして一通り試してみてから考えてほしい。どうして自分が目指しているひとつの理想を、目の前の彼にも同様に当てはめて考えることができようか、と。世界に幸せは、理想は、信仰は一つしかなく(「他」を一顧だにせず)、「師」が唯一無二であり、世界にただ一人しかいない。このような素朴な“進歩史観”は、21世紀においては個々が再考すべき課題であるような気がしてならない。他人の幸せを語ることの、いかに浅はかなることか。「一歩」は踏み出すだけのものではない、その場で一歩、一歩、足踏みしつつ、同じところをウロウロしながら反省的に自分を問い直すことも必要なのではないかと“私は”思う。

 自戒を込めて。11月3日